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2016年7月21日

「越境する身体 西村陽平と出会った子どもたち」のみどころ

“越境”“身体”、それらの言葉は、個々に何がしかのイメージを放っている。だから、越境と身体が“する”という言葉で結ばれることで生まれた“越境する身体”は、それらの言葉の複合として新たなイメージを放っていることになる。身体が何かを越えようとするということか・・・。身体は何を超えるのだろうか・・・。身体は自ら能動的なのだろうか、それとも別の何かによって引き出される能動性を潜在させるのだろうか・・・。枚挙にいとまがない。
越境する身体。展覧会のタイトルでもあるこの言葉は、抽象的で、仮に多くの人が言葉の意味について直感しているとしても、何やらとっつき難いものとして感じられているに違いない。自分にも深い関係があるのだが、何か特別で混沌とした一種の不安あるいは不安定なものとして、受け取られているに違いない。実際、展覧会の内容を知る手掛かりとして重要な役割を果たす作品写真も、「これは本です」。とか、「風です」。とかいった言葉で言い表すことが出来るような明瞭な判別性=特定性=個別性すなわち具象性からは遠いところに身を置いている。
“表現”の世界において、“身体”とか“越境”と呼ばれる言葉は決して新しいものではない。“越境する身体”というタイトルもまた同様で、この言葉をタイトルとする書籍やパフォーマンスも存在しているし、“身体”という言葉自体、舞踏表現の先駆者であった土方巽さんの表現によって世界的に認知された言葉であって、いつでも新鮮な輝きを放つもの=古典、として既に認知されている。

 

歌う、作る、描く、書く・・・。およそほとんどの表現は、行為によって生み出される。それが、悲しみを伝えようとするものであれ、恋心を記すものであれ、あるいは、空や海を懐かしむものであれ、人間が何か用いて何かを行うところから発せられる。自身の体と何かの出会い=ある種の衝突 によって生み出され、その元となる“表現への衝動”は、音や臭いや肌合いその他様々な“刺激”=“情報”との接触に端を発する交信によって生み出される。
われわれは何かに触れ、味わい、感覚する。そして、それを“かたち”にすることで確かめようとし、その過程においてまた感覚する。行為と感覚の繰り返しの中で、自身が感じるものの正体=核心に肉薄しようとする。そこは純粋で、厳しい世界であって、何に対する媚も存在しない、虚飾の無い自身がただ存在する世界である。感覚は、それ自体視覚を通して確認することはできない。それゆえ、自身が感覚するものの姿を、他者が視覚を通して確認することができない。全ては感覚する各個人に帰するのである。

 

個々に異なる人間が存在する。異なる来歴を持つ人間が存在する。われわれの眼前に姿を現す表現は、異なる来歴を持つ異なる個人の感覚のかたちなのである。しかしその異なる来歴を持つ個々人は、擽られればくすぐったく、撫でられれば、恐らくは穏やかな心持になる同じ“人間”なのである。そのことを思う時、“障害”とは自身と他者の間に存在する、あるいは、設けようとする自己防衛の為の捻じ曲げられた概念であることに気が付くことになる。それはおそらく“差別”という言葉で表現可能なものである。

 

「西村陽平と出会った子どもたち」と題されたこの展覧会は、抽象性=非具象性=非個別性すなわち網羅性に満たされている。つまり、“本質”についての問いに満たされている。健常、障害、有名、無名・・・。それらの概念を去って、全ての感覚を動員して眼前に在るものに触れる時、われわれの周囲を満たす全てのものは、生命の存続に直結する刺激に満ち満ちて輝き始める。その時われわれの身体は、差別や概念を越境し、広大な造形美術の世界の楽しみ方を自らの内に取り戻しているのである。

 

愛知県立芸術大学 神田毎実教授